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白の旋律〈白の光〉~旋律№14 肉~次の満足を得るために~~

〈白の暴力〉

   旋律№14 肉~次の満足を得るために~
                                                白

 ある時、ふとある時、あれは調度僕が昼御飯を食べ終えて、午後の診断を始めようとした時のことだった。
 看護師が最初の患者を連れて部屋に入ってきた。僕は彼女からカルテを手渡され、ゆっくりと目を通す。確認のためにもう一度、そして自分で自分を強く納得せしめるために更にもう一度、目で必死に文字を追いかけた。
「桜木君、少しの間、席を外してもらえないかな、患者さんと二人きりで話がしたいんだよ」
「はい、分かりました阿部先生。ではまた必要な時にお呼び下さい。失礼します。」女性特有の甘い香りを残し、彼女は静かに退出した。
 窓を閉め、鍵を閉め、カーテンを閉めた。フーッと小さく息を吐いた。
「それで、いつからなんですか、その症状というか、異変に気付いたのは?」
先程まで下をうつむいていた坊主頭が一呼吸置いて、ゆっくりとこちらに顔を向けだした。ここで彼のプロフィールをプライバシーに触れない程度に記しておこう。

そんな彼がボソッと何か口にしたようだった。
「すいませんが、もう一度言っていただけますか、上手く聞き取れなかったものですから。」今度は意識的に彼の口元に注視した。
「……」やはり、音にならなかったというより、音を声に変換する一種の人間的理性をこの時彼はすでに失っていた。だが、僕は今もはっきりと覚えている。彼の口元に薄気味の悪い微笑が浮かび、「ニク」という空気音を発しているようだった。
 上の瞼はくたびれて垂れ下がり下の瞼は隈で真黒に黒ずんで、顔はゲッソリと痩せ細り、筋肉があることも疑わせる。それはもう顔に色がなかった。しかし、あの目だけは今となっても忘れられない。ギラギラと、何かを捕まえようとするあの鋭く紅い野生的な目は。
 殺られると思った。間違いなく彼は数秒後に、いや、奴は僕に危害を加えるであろうと、医者の第六感が働いた。桜木君を追い出すべきではなかった。僕はしきりに後悔をした。
「ちょっと、トイレに行ってきますので、待っていて下さいね」我ながらに上手くかわしたと思った。
「……」
 ドアノブに手をかけたその時、僕の首にはヒンヤリとした感触があった。細く痩つれた腕がたらんと絡みつき、耳には細かく早く生温かい吐息が当たっていた。
「待てよ、先生よ、医者だろうがよあんた。俺は仮にも患者だぜ」
震えながら、かろうじて声色を思わせるその音の集合体が、僕から徐々に冷静さを奪っていく。
「何がお望みですか……、ここは冷静に、落ち着いて話をしようじゃありませんか。」
「ニク―くれやぁ先生よぉ、俺に肉くれや。沢山くれ、喰いきれねぇくれぇのよぉ、ありとあらゆる肉をくれや。」
「ちょっと待って下さい。言いたい事は分かりましたが、その理由が分かりません。どうか話を初めからお願いできますか?」
若干、男の腕が緩んだかに思えた。坊主頭のジョリッとした感触が、僕の右の頬に走った。
「あれはまだ、働いていた頃のことだったいつものように仕事を終え、その帰り道に食糧を買うためにスーパーに寄った。惣菜やら弁当やら、とにかく腹が減っていたからよぉ、すぐに喰えるのを選んだわけよ。そして俺はレジに向かって歩いた、調度精肉売り場の前を通り過ぎようとした時、突然胸が熱くなり、圧迫感を覚え、息苦しくなって、目の前の世界がグルゥーン、グルゥーンと回転を始めた」
「それで、一体どうしたんですか?カルテには記されていませんでしたが、何か持病でもお有りですか?」
「始めは俺も、きっと疲労か何かが原因だろうぐらいにしか思わなかった、でも今度は、心臓の鼓動がだんだんゞ大きくなり、仕舞には、その音しか聞こえなくなってしまっていた。『ドクンッ、ドクンッ』次の瞬間、目の前の世界が紅一色になった時には、俺は意識を失っていた。――― 目を開けると、辺りの世界は真っ白に変わっていた。その空間内に漂う軽い薬品臭さが俺の気持ちを鎮めた。医者の話によると俺は、精肉売り場の肉という肉を手当たりしだい貪り、喰っていたそうで、店員五~六人掛りでも手に負えず、仕舞には警察を呼んだそうで、事は治まった。その時の俺は、人間に見えなかったと、記録に残っている。口いっぱいに紅々と生肉をほおばり、狂暴な目で威嚇を繰り返し、そしてベッタリと四速歩行だったらしい。――― なぁ先生よぉ、頼むからゝ助けてくれよ、あの日から俺はもう肉がねぇと生きていけねぇんだよ。たのむよ、俺を救ってくれよ先生!」
 正直僕は、彼よりも大きな不安を抱いていたのかもしれない。自分の医療技術で回復させることが果たして可能なのだろうか。
「肉を喰わないと、どうなるんですか?」
「あの後、その話を聞かされた俺は、もう肉を喰うことをやめようと必死に努めた。でも、他の食物が胃に入った瞬間、決まって激しい嘔吐に襲われた。またあの時みたいに化けるのが恐ろしくて、それで、店を何件もはしごして、ただただ肉を買って回った。」
「では、あなたの心も体も肉以外を受け付けなくなった、簡単に言うとそういうことですね。」
「情けねぇよ。今までごく普通の人生を送ってきたのによぉ。自分で自分をコントロールできなくなるとはよぉ。」
「分かりました。この事はあなたと私との秘密にしましょう。一日、たった今から丸一日だけ、僕に時間を下さい。明日の同じ時間にここでまた会いましょう。」
「先生、俺、信じてっからよ、悪かったな手荒な真似して。んじゃぁまた明日な。」
スルッと首元の圧迫がほどけ、彼の背中を見送った。椅子に座り、しばらく考える姿勢をとった。カーテンを開けると陽の向きがすっかり変わっていて、二時間以上の時の流れの中に僕を沈めた。
「先生、患者さんの容体はいかがでしたか?」
「心配要らないよ桜木君。軽い疲労で少し錯覚を見たらしい。話に少し熱が入ってしまったから、また明日落ち着いてから来てもらうことにしたよ。」―――「錯覚……かぁ。」
 彼を救ってやりたいと思った。生きようとする彼の目に僕は心を動かされた。なんとかしてやりたい。でも、患者の要求だからといって理由も無しに肉を与えることが果たして許されるのだろうか?何か、何か良い口実を考えなくては、何か……。
 翌朝、僕は目を覚まし、昨日考えた事と、少し疲れた体を持参して通勤した。僕の専門は心理学、所謂カウンセリングを中心とした治療を行う。通い始めて二ヶ月の引きこもりの中学生や、現実逃避から来る対人関係恐怖症で頭を悩ます中年の主婦、その他いつも治療している患者達の存在が不思議と軽く感じられた。医者として、患者達を平等に扱うのは義務であるが、しかし、ついつい彼の事が頭をよぎってしまう。
ボーッとしたまま午前中の診断を終えて昼食時間。足を投げ出し、イスに座りながら窓の外に溢れた空を見た。向こうに濁った雲があって、風が少し強いな、「桜木君、午後は雨が降るようだね」
「はい、最近暑かったから丁度いいかもしれませんね。ちゃんと傘持って来ましたか?」
「あっ傘かぁーすっかり忘れていたよ。」
「あら珍しい、几帳面な先生が忘れ物なんて。」
「最近少し疲れ気味でね。まぁ明日は休診日だからゆっくりするよ。」
「お茶、持ってきますね。」
 彼が来るまでの時間、なぜだか気持ちがうわついた。丁度、小学生の時分に遠足前夜の布団の中のような気分だった。
「もう三杯目ですよ先生、本当に疲れてるんですか?」
「いやーなぜだかのどが渇いてね。」僕は感情を表情に出さないように努めた。空は濁り、これから患者と接しようとしているのに、自然と感情が高揚してくることに僕は少なからず医者失格の念を抱いた。―――ドアを二、三叩く音がして、それまでの緩んだ空気が、シュッと締まった。例によって目でSignをおくると、桜木君は軽くうなずき、退出した。男とすれ違いざまに挨拶をして、彼女の背中が消えていった。
「こんにちは、いかがですか体調は?」
「昨日先生と別れて、帰るまでの間は心底嬉しかった。医者という立場であれ、自分の理解者が出来るかもしれないと思ったからだ。俺は今まで、自分をさらけ出そうとするたびに相手に裏切られ続けて来た。そして今回の事件を期に、孤独を感じると、すぐに化けるのが常になった。」
「なるほど、あなたの変化とやらの要因にはどうやら肉と孤独というのがあるみたいですね。」
「でぇー先生よぉ、何か良い治療案のかい?」
「一度、あなたの変化した姿を見ないことには手の施しようがありません。まぁ、いくつか考えはありますが、それにはあなたの協力が必要不可欠だ。魅せてくれますね、真の姿。」男は下をうつむき少し考えて、了解した。
「あんたに、俺の全てを賭ける。」
「いいでしょう。ちょっと僕に着いて来て下さい。これからあることの説明は、そこに着いてからにします。誰もいない所です。安心して下さい。」
 男の気配を背中に感じながら、下の階へ下の階へ、隅の部屋へ隅の部屋へ、闇へ闇へと歩を進める。
「先生、ここはまだ病院なのかい?なんだか人気が全然ねぇし、第一、こんな所、いや失礼!っと……。」
「言わんとしてることは分かりますよ。正直な所、あなたと同じく私も不安です。何せ初めての試みですからね。」、とできるだけ語尾を濁してやった。
「さぁ着きました。どうぞお入り下さい。」
『第五実験室』ホコリをかぶった部屋の表札にはそう記してあるようだった。男は一瞬チラリと目をやり立ち止まりかけたが、何事もなかったかのように入室した。
「先生よぉ、これからここで一体何をするんだい?この部屋、透明の壁があってあとは小窓があるぐらいだぜ。」
「僕も一応医者の端くれです。最初から患者に対して圧迫感や不審感を与えるようなことはしませんよ。仮に今、この部屋にメスやら縫い針やらがあなたの目につく所に置いてあったとしたらあなたはどう思いますか?」
「まぁ普通に考えて切られて縫われる、手術をされるわけだから多少抵抗を持つかもな」
「そういうことです。初めのうちは楽に行きましょうよ」僕は微笑をし、彼の緊張をほぐしてやった。
「まずはこの部屋の仕組みについて説明しておきましょう。この部屋は全体で二十畳あり、その真ん中に特性の頑丈な素材で造った厚さ十センチの透明な壁があります。あちら側からこちら側を見ることは可能ですが、逆は一切不可能です。特殊ですから。あなたにこちら側で治療を受けてもらっている間、僕は向こう側の部屋から観察させていただきます。」
「難しいことは俺よく分かんねぇけど、先生があっちの部屋からこっちの部屋にいる俺を観察しながら治療するってことだな。」
「まぁ簡単に言えばそうですね。ちなみにこの壁にはいくつか意味があります。透明であることにより『壁』の持つ圧迫感を消したり、ほら近づくと姿が映るんですよ。自分を映したり。そうそう、壁に一発時分が出せる一番強い力打撃を加えてみて下さい。」
男は痩せ細った右腕を二、三回、回した後で壁を力一杯殴った。
「イッテェー、先生なんだよこの壁、なんて硬さだ全く!」
「先程申し上げたことをあなたが覚えているか少し実験して見たんですよ。ほら言ったでしょ、『頑丈な素材』とか『特殊』とか。ちなみに人間の力ではどうやっても壊せないことになってますから。人間の力ではね。全力で打撃を与えさせたのは、身をもってあなたにそれを承知させるためです。」
「なるほど、つまりこいつは本当の意味で『壁』なんだな」
「そうなんです。透明ってだけでその存在を忘れさせ、相手から圧迫感を取り除いてしまうんですからねぇ。不思議なやつですよ。」
「俺は、この部屋で何をすればいいんだ?」
「食べてみますか?肉。」
「おい本当にいいのか先生!」
「一度その化けた姿を見ないことには治療の方法が分かりませんからね。準備はすでに出来ていますから、少しここで待っていて下さい。」
 部屋を出て、鍵をかけてやった。昨日肉の卸売業者に生肉をところかまわず二十㎏発注しておいた。それを台車で男がいる部屋と反対の部屋に持って行った。
「あっ、あっ、聞こえますかね?そちらの部屋にはスピーカーがあって、僕の声が届くようになっています。それでは今から実験を開始します。向かって左下の壁にご注目。」壁の左下には仕掛けがあって、そこから患者に対してモノを与えることが出来るように、二十㎝四方のドアを自動で開閉させることが出来るのだ。手元のスイッチでそれを開けて、まずは二㎏の肉を投入し、すぐに閉めた。僕はしっかりと目を広げ、観察体勢に入った。
 男は何やらニヤニヤと嬉しそうに近づいてきた。
「先生、本当に食うゼ、化けるかもしれないゼ。」
「とにかく自由にしてみて下さい。」それが狙いですから……。
男は肉を両手で持ち上げ、しめしめとなめるような視線で回しながら眺めていた。堂やら本人はまだ気付いていないようだったが、少しずつ変化の兆候が表れ始めた。
 目じりと口元が段々と吊り上り始め、黒目が少しずつ小さくなって、まるで
ハチュウルイのようだ。手の甲の血管が浮き出てきて、犬歯が鋭く伸びてきた。次の瞬間、両腕、いやこの時すでにそれらは前足と化していた。前足でバンバンと何回も肉の塊を地面に叩きつけて、爪をいっぱいに立ててそれを必死に押さえつけて、そしてついには喰らい始めた。実に生き生きとしていて、実に紅々とした彼の表情に僕はもううっとりと見とれてしまっていた。生き物の顔の筋肉も微細なところまで極限に発達するとあれほどまでに豊かな表情が生み出される。なんて素晴らしいことだ。常に理性が付き纏う人間には絶対に不可能だ。彼はもはや人間なんかではない、ましてや彼でもない。全てを超えた、そう奴は「人獣」
だ!
 見ているだけで生命体の神秘を感じるゼ。ドクンッドックンドクンドクン、奴の体全体が一つのドデカイ心臓に見えてきた。生きている、奴は生き生きと生きているぞ。揺れている、奴の鼓動で揺れている、空気が天地が地球が我が、全てに感染してしまった。奴の計り知れない生命力は完全に息を吹き返した。
 全てを喰らい尽くした後、部屋中を走り回り、開閉口をしきりに叩きながら、奴は求めた。うなり声と共に肉を求めた。十分ほどそれを続けて、もう出てこないことが分かると、失神するように眠りについた。そして徐々に奴の姿は人間へと戻って行った。人類の進化と退化をほんの数分で両方目の当たりにした僕は、ふと、これからのことを考えた。人間は一体どこまでで進化するのだろうか。もしかすると行き着く先は獣なのかもしれないな。
「蛭間さん、蛭間さん、起きて下さい!」
彼に戻った奴は、むっくりと起き上がり、天井やら壁やらを見回し始めた。そしてガクガクと覚束ない四速歩行で例の壁へと歩いていき、時分お姿をじっと眺めて、頭や腕のあたりを確かめるように触り始めた。しばらくしてやっと僕の存在に気付いた様子で、
「せ、先生、俺は一体どうなってたんだ?柔らかくてヒンヤリとした肉を手で触ったとところまでは記憶がある。問題はその後だ。やっぱり以前同様、目の前が真っ赤になって、自制できなくなってどうしようもなくなって、でも今回、一つだけ前と違ったところがあったんだ。」
「なんですか、それは?」
「一瞬,ほんの一瞬、壁に映った自分の姿が見えたんだ。」
「それで、いかがでしたか、ご自分の化けた姿を見た感想は?」
「肉に踊らされている自分が情けなかった。先生、頼むから俺を元に戻してくれよ、俺もうどうして生きていいか分からねぇよ。」――― 哀願した彼の面はこれまでの僕の人生において、後にも先にも見ないほどくたびれた人間のものであった。
 家に帰り、僕はずっと考えた。ソファーの跳ね返りの中で、便座の上で石鹸の芳香剤の香りに包まれながら、夕日色の光を浴びて寂しく晩飯を頬張って、そして、一つの光が頭の中を照らした。
 次の日、また彼に会う約束をした。会うと言っても病院ではなくて、知り合いとしてだ。無論、意図するところは彼の表情をもっと集めるというそれだけのことだ。
 彼には僕の友達を一人連れて行くと言っている。まぁ早い話が桜木君ナわけだが、彼女のことをすでに見ている彼には少し悪いが、今日桜木君には出来るだけ職業臭さを外した姿で来てもらうことにしている。今回の作戦において彼女は重要な役割だ。故に彼に対しては病院の先生のキレイな女友達という抵抗感のない印象を与えたい。実際、僕にとって桜木君の役割とは実に扱いやすい。カルテで患者の病状を知っているが、今回のように診断の際、必要に応じて席を外すが故に彼は自分を知られていないと思い込んでいるだろう。勿論、桜木君にも気を使わせないように、
「男二人で遊ぶのも盛り上がらないから、すまないが来てくれないか」とだけ言って置いた。快く了解してくれた彼女には悪いが、実際のところ本当の意味での桜木君の存在理由とは、蛭間の言動を規制するということにあるのだ。無論、全てを見せた人間と、初対面の異性がいるといった中で彼がどんな二面性を露わにするのかが知りたかったのだ。
 月と太陽は入れ替わり、僕が待ち合わせ場所に到着してから約五分後、薄いブラウン色のミニスカートに、白くてそれでいて身体の線がキレイに出ているニット素材の長袖を着た桜木君がやって来た。
「おはようございまぁーす、先生!」
「おはよう。桜木君ここは病院じゃないし今日くらいは名前で呼んでほしいな。」
「えーっとじゃあ、阿部さんて呼びますね!」
「たくさん装飾品もつけて、化粧も普段より気合が入っていて、僕じゃなきゃ君と分からないかもな。」
「先生、じゃなかったや、阿部さんのご注文通りアタシ頑張ったんですよ!」笑いながら辺りを見回している仕草が、どこか普段の彼女とは違った魅力で僕を引きつける。
「遅いですね患者さん、じゃなかったや蛭間さん、あっ阿部さんアタシには仕事臭くないようにとか言って自分はあんまし崩してないじゃないですかぁー、ヒドイなぁー。」
「一応、ほらスニーカー履いてるしさ。」――― まぁ桜木君が強い服で来ることが設定済みだったから、僕はあえて蛭間に緊張を与えないように、弱めの服でやって来た。白地に赤いステッチが入ったワイシャツに下は細身のブラウンのジーンズ。後は先程の白いスニーカー。なるべく蛭間の注意を自分に向けさせず、彼の内面を調べたかった。まぁ、この分だと彼は終始明るい桜木君を見ているだろうな。取り合図一つ目の作戦は成功したわけだ。
 数分後、蛭間がやって来た。年層を思わせる「すたいる」だ。
「お早うございます先生。」
「おはようございます。今日は病院じゃありませんからきがるに名前で呼んで下さい。」僕がそう言うにもかかわらずこの日彼は終始「先生」と呼び続けた。
「先生、そちらのキレイな方は一体どなたですか?」
僕は桜木君に軽いアイコンタクトをして
「友達ですよ。ほら、せっかくの外出なのに男二人じゃ花がないと思ってね。名前は、えっと、……そう小野寺君です。」――― ちなみに「桜井君」でもよかったのだが、ここではウソ臭くなるからやめにした。
「初めまして小野寺さん、私は蛭間(ひるま)と言います。先生にいつもお世話になっている患者の一人でして……まぁ今日はよろしくお願いします。」
「初めましてオノデラでぇーっす、ヨロシクお願いしまぁーす!」
「して先生、今日はそこへ行きますか?」
「そうですねー、せっかく三人がいることですしここは一つ各人が一箇所づつ行きたい所を挙げるというのはどうですか?」
「さっすが先生だ、頭がキレるね!」
「じゃあアタシ焼肉!」思った以上に早かった。
「じゃあ俺はボッボーリングに行きたいな。何せこの年では恥ずかしくて行けないから、一度は行きたかったんだ。」
「阿部さんは?」
無難に食事と決めていた自分が浅はかだった。
「うん、じゃあ最後にカラオケに行こう。」
 初めに僕らが向かったのがボーリングだった。桜木君と僕が手取り足取り蛭間に教えて、それが時間を埋めてくれた。すっかり彼と桜木君も打ち解けた結果、僕の存在が薄くなったのは気のせいだろうか。一位桜木君、二位は僕、三位は蛭間だった。出来レースでも僕の頭の中では彼を最下位にするのは後々の展開に響くから、それだけは避けたかった。やはり、プラスでも、マイナスでも桜木君の役目は大きいか……。しかし彼はボーリングに感動したらしく、話が弾み、気付くとすでに桜木君希望の焼肉屋の中だった。
 僕は逃げなかった。蛭間が肉に反応して化けるであろうことから。歯車が噛み合っちまうと、事ってのは進むしかねぇんだよな。
「アタシ、タン塩、ロース、それからビビンバ!」
「おいおい小野寺君、そんなに食べて平気なのかい?」
「はい、平気ですよ!阿部さんのおごりですものネッ(笑)でぇー阿部さんと蛭間さんは?」
「じゃあ僕はクッパ、蛭間さんは?」
「冷麺で。」
「エッ?」
「えっ?」
「冷麺を下さい。」
「ハァー……」
「はぁー……」
「ほら、今日は暑いですものね。それにこの年で肉はあんまり食べづらくてね。」冷麺といった時の彼の冷ややかな表情と、暑さについての件(くだり)での赤く灯がともった表情の差には、僕の心も動揺した。なぜだか少し不安になった後、僅(わず)かに胸騒ぎがした。
 料理が全て出そろい、楽しい会食の予定だった。しかし、僕も桜木君も先程とは明らかに違う、彼の冷めた表情と態度に気付いた。と言うよりは気付かされたとでも言おうか、蛭間は下をうつむいて、麺をすすっている。一度も顔を上げようとはしない。次第に桜木君は肉に箸が走り出し、蛭間の息の根がスーッと絶えていく感じがした。僕は我慢できなかった。医者としての本能が発動し始め、彼に声をかけようとした。
「蛭間さ……」
「先生、ちょっとお手洗いに行ってきます。桜木さんすいませんね、失礼します。」と、一瞬だけ顔を上げ、ヨタヨタとトイレへと姿を消していった。 僕は何かを察した。
「桜木君、僕も焼肉を食べていいかい?なんだかお腹が空いてね。」
「いいですよ、もうジャンジャン食べましょう!」――― 早く肉を消したかった。彼の苦しみと、不安と一緒に。
「蛭間さんが戻ってきたらここを出よう。もう食べ終えたみたいだし、僕たちだけ食べているのも悪いだろう、足りないならまた今度連れてきてあげるから。ねっ。」
「ハァーイわかりました。」
さっさと平らげた僕らは、支払いを済ませそして蛭間を待った。
 少しフラついた足どりを隠すような、そんな無理につくった表情で彼が戻ってきた。さすがにこれには気付いたようで、桜木君も心配そうだ。僕はそっと彼の背中をさすってやり、行き先を映画館に変えた。別に見たい映画があったわけではないが、彼の体が心配だった。
 「小野寺さんはどんな映画が好きなんですか?」
「えーっと、やっぱり恋愛ものか学園ものかなぁー。」
「じゃあ決まりだね、今日はそうしよう。」
僕の右に蛭間が座り、左に桜木君を座らせた。映画が始まり、桜木君はそれに夢中で、僕は後で話のネタにしようぐらいの気持ちで、彼は無表情だった。半ば蛭間はウトウトと眠りだして、疲れているのが見てとれた。その頃には桜木君もすっかり映画に入り込み、僕はほんの僅かな時間だったが、肩の荷が降ろされて、やっと体が軽くなったようだった。
 無難に映画館を切り抜け、タクシーで桜木君を家まで送った後、車内の空気はなんだか寂しくなった。
「先生、今日は楽しかったよ、久しぶりに歩いたから少し疲れちまってよ、映画の途中で眠っちまってよ、俺としたことが情けねぇや、で、どんな内容の映画だったんですかい?」
「蛭間さん、」僕は彼の左腕をとり、脈を測った。
「やっぱり。食事の時、何があったんですか?あなたの中で、苦しかったでしょ、話を聞かせてください。」
「すいません、運転手さん、わりぃがここで停めてくれるかい。」蛭間は、病院のあの実験室で話しをすることを提案した。
 「先生、やっぱりあんたにはかなわねぇよ、騙し騙し上手くやったつもりだったが見抜いてたんだな。」――― 夜風が僕らの足どりをあざ笑うかのように、気持ち悪く服をこすり、ヒューッと高い音を立てて背中に当たってくる。
 「わざと焼屋は変更しませんでした。勿論、小野寺君が焼き肉屋へ行きたいと言ったのは正直、想定外でしたけれどもね。あなたを少し観察したいというのもあったんですよ。ほら、僕は医者だから。」
「先生……」――― 階段を降りてまた降りて、隅へ隅へと部屋を追いつめていく。
「さぁ着きました。」患者用の部屋に入り、僕らはあぐらをかいて地べたに座った。
「どうぞ。」
「フゥー……、どうにかなっちまいそうだった。吐き気がして、目がグルングルン回って、足にも力が入らなくてそれでも肉の臭いと焼ける音から、脳が想像し始めるからどうしようもなくて、苦しくて辛くて、もう限界で、あの場を外した。」空気を察して、僕は右手で彼の手を握ってやり、左手で背中をさすってやった。
「トイレでは、どうされましたか?落ち着いて話してください。誰もここへは来ませんから。」
「何がなんだかもう分からなかった。目の前が歪みだして、トイレの壁に何度ぶつかったことか、その時に僅かな芳香剤の香りが分かった。地面に這いつくばりながら必死で目指した。やっとの思いで手にしたそれは、爽やかなオレンジの香りだった。そして、そいつを一生懸命に吸った。何もかもを忘れるくらい、しばらくして気分が落ち着いてきて、手を洗うことにした。石鹸で洗った。それがなんだかー自分が救われるような気がしたんだ。気付くと、完全ではないけれども正気に戻っていた。」
「実は、僕もある程度の責任を感じています。正直なところ、あなたには感謝していますよ。では一つ質問です、今一番の願望は何ですか?」
「肉くれや先生。」
「では私は、観察室の方へ行きますね。」
「すまねぇなぁ。」
 また十㎏の肉を与えた。奴は喜ばしげに肉に喰らいつき、発狂し、走り回り、雄叫びを上げた。それから二時間ほどの間僕は奴の監察結果を基に、今後の計画を立てていた。その中で僕は思い切った決断をした。
「先生すまねぇ、またやっちまったようだな。情けねぇ、迷惑ばかりかけて本当申し訳ねぇな。」
「気にしないで下さい。それが私の仕事ですから。」僕は微笑みながら言ってやった。彼は下をうつむいて、発する言葉もないようだった。僕は彼の肩に手をやり、次の計画、いや最後の策として彼に以下のように告げた。無論、彼には実験のほんの一つに過ぎないと伝えた。
「蛭間さん、あなた本当にその病気を治したいと思っているんですよね?」
むっくりと顔を上げ
「勿論だよ、俺どんなことだってするぜ。」
「がまん、出来ますかねあなたに我慢が。」
「何を我慢するんだよ?」
「今の瞬間から『禁肉』、つまり肉を食べないで下さい。」
「先生、それどういうことだ一体?ここに来りゃぁ肉喰わしてくれんだろ?」
「ですから、まぁ早い話、もう限界だ、これ以上耐えれらねぇよっ!って思ったら速攻でここに来て下さい。ただし、何があってもこの実験室へ入ること、そして、肉は喰べないこと。ここへ来れば喰べられるんですから、肉が……。」
「よし分かった。俺、先生の言うことは聞くって約束したしな、何か先生にも考えがあるみたいだから、俺我慢するからな。」
「今日は疲れたでしょう、もうお帰りになって下さい。」
「おぅ、遅くまで付き合わせて悪かったな。」
「おやすみなさい。」
「おぅ、おやすみー。」
 蛭間が家に帰った後、僕は一人、観察室の机に向かった。
 翌日、いつも通りの桜木君の姿に心がおちついた。でも、あえて昨日のことを切り出すこことはしなかった。
「先生、おはようございます。今日は天気がいいから、診断もテキパキ行きましょうねっ!」 
「おはよう。そうだね、少しでも患者が減るといいね。」
「国見さん、お入り下さい。」
「先生お早うございます。気分の憂鬱が以前よりも軽くなった気がします。」
「はい、お早うございます。それは良かったです、続けられそうですか?」
「感情を文字にして書くと、心が少し救われた気がします。不思議ですよ。」
「必ず治る日が来ますから、それを信じて下さいね。」

「野田さん、お入り下さい。」
「初めましてよろしくお願いします。先生、実は最近になって仕事のストレスがたまってきて、それで何かいい発散法はないかと相談に来ました。」
「はじめまして、担当させていただく阿部です。そうですか、ではいくつか簡単な方法を教えましょう。『寝る』、『喰う』、『放つ』。この三つが分かりやすいかな。」
「えっ?」
「つまり、人間の三大欲を中心にしたストレス解消法ですよ、この三つの中であなたが一番楽に出来そうなのはどれですか?」
「まぁ、食べる事なら簡単そうですけど、」
「ではこうしましょう、次の診断までに気持ちが不安定になったり、ストレスを感じた時は、一番の好物で腹を満たして、そして眠ってみて下さい。落ち着いてきたら徐々に食べる量を減らしていきましょう。」
「はい、一応やってみます。」
「では次回、感想を聞かせて下さいね。それではお大事に。」
「ありがとうございました。失礼します。」

「美神さんお入り下さい。」
「コンニチワァー、先生、アタシの彼氏最近冷たくって、友達に相談してもしっくり来る答えが返って来ないしぃ、彼氏つきつめて嫌われたくないしぃ、それで来たってわけなのよネェー。」
「はい、こんにちは。そっか美神さん自身、何か自分に問題があるところはないのかな?」
「んーよくワカンナイけどぉ、なんか彼氏が距離置くようになったから、やっぱアタシに問題アリかなぁー。」
「深く考えすぎないで、もし自分が彼氏の立場だったら何を一番に彼女に求めるのかを考えてみるといいよ。そうだね、簡単に言うと人の傷みを解ろうとする姿勢とか、自分がされて嫌なことはしないとかかな。彼氏のこともっとよく理解しようとすると何かしら環境が変わってくるよ。」
「うん、ワカッタ!やってみるネッ!んじゃぁまったネェー!」
「お大事に。」
 午前中は五人の人間達と接した。しかし、なんだか医者というものはどういう実態であるかがさっぱり分からんな。
「桜木君、今日の昼ごはん食堂で一緒に食べないかい?」
「そうですね、先生と食べるのは久しぶりですねっ。」
僕はからあげと、桜木君は冷し中華を注文した。
「君、この仕事して何年目だっけ?」
「えっと、今年で三年目です。ここが初めての職場で、助手に就くのは阿部先生が初めてなんですよっ!」
「そうだったね、君は医者の実態についてどう考えるんだ?」
「んー、実態ねぇー、お医者さんて患者さんの病気を完治させることも大事だけど、それよりも患者さんに、病気に立ち向かえる勇気を与えることが大切だと思うのですよ。難しいことはまだよく分かんないけど、お医者さんて私が思うには『勇気委託者』なんですよね。」
「勇気委託者ねー、……桜木君、僕は勇気委託者として何点かな?」
「そうですねぇーから揚げくれたら答えますよっ(笑)」
「はいはい、どうぞ。で、何点だい?」
「五十点くらいかなぁ、先生が助手に相談してちゃぁーまだまだですよっ!」
「こらこら生意気言うんじゃないぞっ!」――― 僕は少し自分の気持ちに整理がついた気がした。爽やかな風がフゥーッと体を突き抜けた。
「午後も診断、頑張りましょうネッ!」
「頼むよ、生意気な看護師さん。」
「ハァーイ。」
 午後の診断が始まって、ずっと彼のことが頭を離れず、幾度か目の前の患者に対しての意識が欠落してしまっていた。
「次の方、お入り下さい。」
母親と、小学校低学年ほどの男の子が入ってきた。
「先生よろしくお願いします。実はうちの子、最近どういうわけか学校に行きたがらなくてね、どうして学校行かないの?って理由を聞いても答えないし、何か家庭に事情があるとも思えないし、今しっかり学校に行って基礎を身に付けないと、他の子達から遅れちゃうんじゃないかって心配で心配で、それでね先生、」
「お母さん、すいませんが少し席を外してもらえますか、明君と二人だけで話をさせてはいただけませんか?」
「先生がそういうのなら分かりました。」
「桜木君、お母さんを控え室に案内してあげて。」
母親の立った感情をなだめながら桜木君は退出した。
「さて、じゃあ何から話そうかな、明君は何が話したいのかな?」
「……」
「そうかー、初めて会う人にいきなり話すのはまだ難しいよね。じゃあ先生から話そう。僕は明君ぐらいの年の時にはいつも決まって親とケンカしてた。勿論勝てないって分かっていたけどね。でもそのうち、なんとかして勝ちたいと思うようになった。明君、僕が親に勝つためにしたことって一体なんだったか分かるかい?」
「……。」
「僕はね、とにかくたくさん勉強した。学校でも家でもね。でも、元々要領が悪くて不器用だったからね、一向に成績が上がんなかったんだ。でもね、そうしているうちにさ、なんだか自分の気持ちを外に出せるようになった。言葉として相手に気持ちを向けると、何か変化があったり不思議と相手も意識し始めるんだよ。」
「……先生、ぼくは、ぼくは、ぼくは、どうしたらいいの?」
「本を読んでみるといいよ。そうするとね、自然といろんな言葉の使い方を覚えて、自分の気持ちを話せるようになるし、それに学校の成績だって上がるんだよ!先生もそうだったからね。」
「うん、ぼく家に帰ったら本を読むよ、先生ありがとう!」
「今日は明君の悩み事が何なのかは聞かないよ、自分の気持ちを言葉に出来るようになってからまた来てね、約束だよ。」
「わかった、先生またね、バイバイ!」そう言ってチョコンと退出した。
「先生、明君、お母さんに本が欲しいって言っていましたよ。小さいのに偉いんですねぇー。」
「君も少しは本を読んだらどうだい、桜木君。」
「本なら読んでますよ。グルメ雑誌とか、ファッション雑誌とか……あっそうそう、先生今度、スパゲッティご馳走してくださいよっ!」
「本を読みなさい。」
 二日経っても蛭間は来ず、三日目になって僕が仕事を終え、診断室の明かりを消しかけたその時だった。ドアの外でドスンッという鈍い音がして、僕は気になって恐る恐る空けてみると、そこにはたった三日間で豹変してしまった蛭間が倒れていた。
「蛭間さん、蛭間さんっ!どうしたんですか一体!」
「せっ、せんせいのいうとおりおれ、やくそくまもったぜ、でももうげんかいだ、助けてくれ、おれをすくってくれ。」――― すっかり衰弱しきった彼の目に力はなかった。
「待っていて下さい、今すぐ実験室に行きましょう。」僕はそういうと、彼を背中に背負って実験室へと走った。
「にく、にく、にく、」
「蛭間さん、あなたは偉い人だ。よくここまで我慢しましたね、分かりました、約束通り肉を与えましょう。」
「ほんとうかいせんせい、」背中を通じて伝わってくる彼の生気が段々と弱まっていくのを感じた。これ以上話すと本当に終わってしまいそうだったから、とにかく無口のまま走った。
 実験室に着くと、すぐに彼を床に降ろして、僕は観察室へ向かった。
「蛭間さん起きてください!肉です、肉ですよっ!」
先程まで倒れていた蛭間の鼻が、ピクリゝと動いて両手の指先もかすかに意識を取り戻しつつあった。
「肉ですよ、肉、ほら肉ですよ蛭間さんっ!」
彼は目を開き。世界に焦点を合わせようとしている。すっかりやつれて、腕と顔の皮膚も所々めくれていて、いよいよ動物味が増していく。
「にく、ニク、ニク、」
「そうですよ肉ですよ、思う存分喰らって下さい。あなたはよく我慢した。さあ喰べなさい。」
両脚をついて下半身をツンと起こし、両腕をついて頭を低く下げ、それは丁度チータが獲物を狙うかのような姿勢に変化し始めた。
「いよいよだな。」
奴の目は以前のように紅く光り、ツメとキバがむき出しになって、腕の筋肉も隆々としてきて、ついに完成した!奴は目の前に置かれた五㎏の肉の塊をモノの数秒で片づけた。
「いいぞ、いいぞ、」
「ガルル、ガオー」と雄叫びを発し、部屋中を駆け回った。続いて十㎏の肉を投入、奴はいよいよ嬉しそうに肉をロックし、ガブガブと噛みついてみせた。今度は少し時間をかけて喰った。奴の皮膚一気に赤みとツヤが戻って来た。そして、もっとよこせと言わんばかりにこちらを睨みつけている。
 それから何分か肉を与えるのを中止して、監察した。どうやら奴は肉の投入口に目をつけ、そこから肉が出てくることを学習したらしく、しきりにそこをアタックする。
 またそこから何分か監察する。奴のアタックからおよそ十分後、あらたな兆候が見え始めた。奴は壁という壁に頭っからぶつかっていった。
「ついに始まったか。」
それから自分の姿が映った壁を睨んではアタックを繰り返し、徐々に体力を削っていった。
 数分後、肉の投入口の所へ来て、奴は倒れた。そして目を閉じ、眠りに落ちそうだった。そして僕は次の作戦に移ることにした。
 奴の目の前に肉を近づけ、気付く寸前で引っ込めるの繰り返しだ。奴も肉のにおいが気になって再び目を開けた。肉に喰らいつこうとした瞬間、スッとそれを引き戻す。数回これを繰り返してやった。」すると、奴は怒り狂い、叫んで、必死に肉を掴もうとした。ここで更に僕は次の作戦に出た。
 奴が肉の投入口から出て来た肉をついに捕まえて、でっかい口を開け、ガブッ……、奴は異変に気付いて、二、三度同じことを繰り返すが結果は皆同じで、喰らったはずの肉の感触、味覚が全て虚無なのだ。なぜなら奴の目の前に映るのは僕が造り出した「肉の像」であるからだ。
 そして今度はそれを部屋のあちこちに投影して見せた。奴の足下、頭上、部屋の隅に、口元。奴が像に噛みついてはそれが消え、消えてはまた新しい肉の像が造られる。
像、像、像、肉の像。像が生まれてまた消えて、
奴を仕舞には追い込んだ。部屋中肉の像で埋め尽くし、パチパチと一斉に消したりつけたりした。もうそうなるといよいよ奴は狂い出し、壁にアタックし^床お転げ周り、仕舞には自分姿が映った鏡にまで威嚇をし始めた。完全な怪獣と化した。そして僕は、部屋中に溢れかえった像と明かりを一斉に消した。「三、二、一」、明かりをつけると同時に奴の全身に肉の像を投影した。僕の目の前には紅い世界が広がった。
先程までの奴の殺気はスッと消えていた。見ているこちらも鳥肌が立つほど冷静に自身の肉をむしゃぶっている。噛みついては流れ出た血液をなめて、出血が飛び散り、骨から肉をはずしていく。血液が飛び散り、それをいとおしむかのように、なめていく。僕は肉の像の投影を辞めにした。あまりにも悲しすぎたから、自分をあんなに幸せそうに傷めつける動物が今まであっただろうか、時間とともに奴の目には光が失くなり、それでも肉を喰らうことを辞めない奴に、僕は生命の神秘を感じた。「サディズムとマゾヒズムの融合」己の意志で己の体一つを媒体としている。段々と薄くなり、空になっていく彼の姿を僕は涙を流しながらずっと見ていたんだ。本当に彼は満足そうな顔をしていた。僕は嬉しかった。何よりも彼との約束を守れたことが、彼を救えたことが―――
 それから数分後、僕の目の前で一つの生命の紅い紅い生涯が幕を降ろした。
「桜木君、しっかりと観察の記録は録ったね。」
「はい先生。」
桜木君と僕はそれからしばらくその場で泣き崩れた。  

 僕はあの時の彼の鮮やかな紅い表情を今も鮮明に覚えている。唯一最後まで残った頭。その表情にはもう欲望はなかった。なぜなら、彼はもう次の満足を得終えたのですから。

制作期間 二〇〇五/六/十四(火)~二〇〇五/九/十一(日)
編集期間 二〇〇五/九/十三(火)~二〇〇五/九/二十四(土)

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販売元:20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
発売日:2006/01/13
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